Topics ・ 2026年 11月号
自分の晩ごはんを釣る

文・林 由美(プライマル・コーチ)
1日目の午後、私たちは自分の晩ごはんを釣りました。
10月の初め、長野県の信濃町で3日間を過ごしました。湖があり、森があり、氷期の地層が出てくる土地です。通しのテーマは「命の循環」でした。見てきたことを、これから6回に分けて書いていきます。
長野県信濃町、黒姫高原のふもとにある黒姫ガーデン(竹村養鱒場)。代々、水源を守り繋いできた一家です。その水で岩魚、虹鱒、信州サーモンを育て、釣り堀を開き、加工して売っています。水から食卓までが、一軒の中でつながっている場所です。
育てている魚のうち信州サーモンは、長野県の水産試験場がニジマスとブラウントラウトを掛け合わせて作った、この県にしかいない魚だそうです。人の手が入った魚を、人が育て、人が食べる。そういう場所でもあります。
竿を握ったのは6人。30分で、1人2匹が目標。「釣れなかったら夕飯ありませんよ~。」と主催の山本さんの声でスタート。釣れたのはニジマスでした。
釣っていたのは、自分の分だけではありませんでした。到着が遅れていた方たちと、泊めていただくペンションのオーナーご家族(奥様と子ども2人)の分。あと何匹だね、と言いながら、みんなで数えて釣りました。1匹も釣れなかった方はいませんでした。
魚が餌に食いついた瞬間がわかるように集中しながら、餌が魚にはどう見えているのかな、などと、自分が魚になったように想像していました。
釣った魚は、そのまま加工所へ運ばれました。生きている魚に、包丁が入ります。
台に立ったのは、二代目と三代目の親子でした。二代目が背開きにし、三代目がえらと内臓を取る。並んで、手だけが動いていきます。
まず、魚の頭を木の棒でコンコンッと叩きます。なぜですかと聞くと、おとなしくなるからだと教えてくれました。軽く脳しんとうを起こさせるのでしょうか。ニジマスは身体もぬるぬるしていて、跳ねられると扱いにくい。魚のほうも、痛みが少なくて楽なのではないかしら。
えらは、スプーンの柄の、クネッと折れ曲がったところに引っ掛けて取り出していました。焼く魚はエラと内臓を取るだけ、揚げる魚はパリッと揚げる為背開きにしてくださいました。
手際よく捌く二代目さんの仕事ぶりが、印象に残りました。「魚も食べられるのなら綺麗に捌かれ、美味しく料理される方が嬉しいのではないかしら?」と思います。新鮮だから、内臓も切り口も綺麗でした。
あとで聞いた話では、三代目は関東で運送会社を起こした方で、その会社を仲間に任せ、実家の養鱒場を継ぐために戻ってきたそうです。
同じものを見ていた人の中に、目をつむった方がいました。魚を目の前で背中を割いたり、内臓やエラを出したりする時は、見れない、と。
同じ魚、同じ包丁、同じ部屋です。それでも、反応は分かれました。
この分かれ方を測った研究があります。エクアドルとアメリカの人に、豚の丸焼きの写真を見せた実験です。頭がついたままの写真と、頭を落とした写真を、どちらが当たるか分からない形で見せました。頭がついていると、肉を動物から切り離して考える働きが弱まり、その分、嫌悪感と、殺された動物への共感が強くなりました。これは両方の国で起きましたが、差がはっきり大きかったのはアメリカのほうでした。姿のままの肉を見慣れているエクアドルでは、頭があってもなくても反応があまり変わりませんでした。
加工所で起きたことと、同じ形だと思いました。あちらで国の違いとして出たものが、あの日は、経験の違いとして出ていました。目をつむった方が弱いのでも、見ていられた人が強いのでもありません。見慣れているかどうかで、同じ光景の見え方が変わる。それが測られていた、ということです。
同じ研究者たちは、その前に別の実験もしています。加工された肉は、未加工の肉より、動物への共感を呼び起こしませんでした。食肉処理を「殺す」ではなく「収穫する」と言い換えると、共感は弱まりました。メニューの「牛肉・豚肉」を「牛・豚」に書き換えると、共感と嫌悪が強まって、菜食の料理を選ぶ人が増えました。
この一連の実験では、普段から肉と動物を切り離して考えている人ほど、影響が大きく出ていました。遠ざけることに慣れているほど、遠ざける仕掛けがよく効く。研究者たちはそう説明しています。
肉を動物から遠ざける仕掛けは、加工にも、言葉にも入っています。切り身のパックの前で何も感じないのは、感じにくいように作られているからであって、その人が鈍いからではありません。私も、普段の買い物でいちいち立ち止まってはいません。
ここからは研究の話ではなく、私が思ったことです。竿を持っているあいだ、私は餌が魚にどう見えているかを想像していました。研究の言い方を借りれば、動物と食べものを遠ざけて考えるのとは、逆のことをしていたのかもしれません。
違いを作るのは、見慣れているかどうかだけではない気がします。自分の食べるものを自分で確保し、食卓に届くまでの過程に立ち会う。その経験も、食べものと命の距離を変えるのかもしれません。
1時間ほどして、吉田はやとさんのペンションで夕食になりました。吉田さんが外で薪を焚き、えらと内臓を取った1匹を焼いてくれます。背開きにしたもう1匹は、私がテラスで揚げました。
2匹のうち1匹は人の手で、もう1匹は自分の手で仕上げたことになります。竿を持った手と、油の前に立った手が、同じ手でした。
私は申し訳ない程、ためらいはありませんでした。
2時間前まで確かに生きていて泳いでいたニジマスさん。その命を私の命につながせていただく。そんな思いで、感謝して美味しくいただきました。
一人ではなく、数人で作業をして、話をしながらの食事も楽しかったです。釣ってきた人も、釣られた魚を焼いた人も、その場にいました。
エラや内臓を取り出すときに目をつむっていた方たちも、調理し食べ終わった時には、皆さん美味しかったと言っていました。
見ていられなかったことと、美味しかったこと。その両方が、同じ人の中にありました。どちらかを選ばなければいけないわけではないのだと思います。目をつむった時間も、美味しいと言った時間も、同じ1匹の魚から来ています。
次にスーパーで魚の切り身を手に取るとき、あの加工所の台と、並んで動いていた二つの手がふっと思い浮かぶことでしょう。
出典
Kunst JR, Palacios Haugestad CA. Appetite. 2018;120:356-366.
Kunst JR, Hohle SM. Appetite. 2016;105:758-774.